Note 848 一般 (salon.general)
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Title:君と僕との関係
Bytes: 26616 Date :  8:23pm  9/15/94 Author:pcs22968 (Mai)

 >  取り敢えず、「あなたにとっての salon.general」についてお聞
 >  かせくださいませ。

 御要望も頂いた故この難題に対し思うが侭に書く覚悟であるが、取り敢えず端
的に表現すれば私にとってのsalon.generalは紛れもなく天国だ、但し其れは決し
て入ることの出来ない天国である。その昔私はアスキーネットの一種独特なかつ
閉鎖的な雰囲気に疑問を感じ、此処が全世界の概略的存在なのか或は世界のごく
一部に過ぎないのかを確認する為に結局主にNIFTY-Serve等の他の諸ネットに遠征
するも未だ戻らぬ訳だが、他と比較した限りはアスキーネット風の閉鎖的雰囲気
という視点から評価してsalon.generalは紛れもなくアスキーネットの中でも最も
象徴的な存在の一つである。従って此処で発生する日常の茶飯事を観察すること
が有意義かつ価値の高い事なのは当然である。勿論salon.generalの常連の皆様方
なら「何処が閉鎖的だ、これ程気楽に書けるネットは他にない」と反論なさるに
違いない。御意、此処が気軽で居られる場である点は此処が天国である以上明白
だ。勿論、問題は此処に入れるか否か或は水が合うかどうかという些事に過ぎな
い。成程些事だが、この一見単純な問題がネットのごとき人的関係がクローズア
ップされる世界では絶対的な意味を持つ。例えば大気中から酸素を摂取して生命
を保持せざるを得ない生物が無頓着に水中にどぼんと飛び込むと息が出来ない為
げぼけぼ苦しむ他ない訳だが、魚類等の普段水中で生活している生物からは「こ
いつ何やっとるのだ」としか見えないのであり斯様な点においても“おさかな隊”
という発想は実に言い得て妙だし見事な比喩の実現であることに驚嘆せざるを得
ないのである。“おさかな隊”に平然と入れるか否かは正にsalon.generalへの参
加可能性を判断する為の篩いに掛ける試験だと言えよう。貴方は、仮に所謂初心
者が此処に初めて参加すべくsalon.generalをオープンしたら突然「おさかな隊」
という表題のノートが画面に表示された光景を想像したり標準的な感性の持ち主
が其れに如何なる反応を示すか考えた事があるか。尤もそこが外部からどれほど
隔絶した環境であれども、其の中に居る主体にとっては、其の中に入ることが幾
程の困難を伴うかを全く理解できないとしても何等不自然ではなく、寧ろ其れは
他のあらゆる環境下でもよく見られる日常的な現象に過ぎない。ここで実現して
いる極めて気軽なコミュニケーションを目の当りに傍観すれば、その中で呼吸で
きるか否かが大問題であることを十分に理解している人は僅かか、あるいは誰一
人理解していないか却ってそんな問題はないと言い切る方が大半であろうという
想像は極めて高い確率で当たると思わざるを得ないのだ。salon.generalに限らず
アスキーネットの敷居値が高いかどうかに関しては議論の余地もあるが現に不自
由なく参加している一部の人を例外としてその他大勢にとっては極めて敷居値が
高い、否、敷居は低いかもしれないがならば鴨居も低いのだ。慣れぬ人は低い敷
居に騙されて入ろうとした所で頭を鴨居に猛烈に衝突させて昏倒するのだ。城壁
のすぐ外にはこうやって気を失っている人々が文字通り死屍累々と蓄積するのだ。
つまりはsalon.generalは言うなれば高い壁に囲まれた中の天国なのである。私に
とってのsalon.generalとはその壁に開いた僅かな隙間を見つけてそこから中を覗
いたり、希に手だけ突っ込んでちゃらちゃら書いたりすることが可能な世界であ
り、所詮それが限界であることが心理的圧力という現実の力により屈伏してしま
う自己を省みても明白である、この世界では自分が異端者であり阻害された存在
たることを猛烈に自覚するのである。巷ではアスキーネットは怖いという声があ
り、もう消えているが先日もjunk.testでその種の議論があった。私自身アスキー
ネットに書き始めてからもう7年になるが実際今でも怖い。この文章などびくびく
しながら書いているのだ。この怖さは一つは壁自体の怖さであり或は壁がある所
以の怖さである。その壁を飛び越えようとすれば着地に失敗して骨を折らないだ
ろうか、まともに入り口から入る時にいきなり殴られないだろうか、ドアを開け
て一歩踏み出した所で黒板消し程度ならまだしも槍が落ちてくるかもしれないし
落とし穴やブービートラップが配置されているかもしれないとか。厳密に表現す
れば天国の外から見ればこの壁の存在こそが怖さなのである。ところがその天国
の中では一体何が起きているのであろうかと観察すればするほど、総合的には別
段他のネットと何も変わらぬように見えることに気付く。とはいえsalon.general
は他のネットとは明らかに違う特異な存在と感じることも事実である。その特異
性が何に由来するのか考察すると、やはり高くそびえた壁にあると結論せざるを
得ない。考えてみれば個人的にはsalon.generalとは長い付き合いである。皆さん
はご自分がsalon.generalに書いたことを何か覚えておられるだろうか。当然最近
のことなら何かしら覚えていよう。では例えば一年前、さらに遡って数年前に書
いたことで何か覚えているかという問いに対して即座に“ある”と返答できる方
はどれだけいるか。自分自身を振り返ってみれば実に多くの文章が風のように時
には嵐のように流れてゆき最早此処にはその名残もないことに気付くのである。
私はsalon.generalに書いた内容で今でも鮮やかに覚えていることが二つある。他
は頭の中の記憶から概ね消去されてしまったのだ。その二つも、一字一句を覚え
ている訳ではないのだが紹介すると、一つは「遠足にお菓子を一つだけ持ってき
てよい、と言われた子供が“お菓子いっぱい”というパック菓子を持って行った」
というものである。但し、これを書いたことを覚えているのはその内容が印象的
だった所為ではなく、むしろこれに「すげ〜」というレスが付いたからであろう。
何しろ三、四年も前のことなので記憶違いがあるかもしれないが、「すげ〜」か
「すげー」か、何かそのような、それだけのレスが付いたのである。何故それが
記憶に残っているかというと、このレスを見た瞬間に一体何がどうすげ〜のか、
はたまた「すげ〜」というのは文字通り解釈してよいのか或は呆れたニュアンス
があるのだろうか等、一体何なのか当時全然分からず、未だに分からず、「あれ
は、なんでがな、あったらうか?」と首を捻り続けて筋を違えた状態になってい
るからだ。当時既に私は疑問を感じても無闇に質問しないという傾向が出始めて
おり、そのため「すげ〜というのはどういう意味か」という質問等しなかったの
である。この単純な文字列を他力で解決してしまうと、解釈の自由という観点か
ら生まれる読者自身が解決すべき公案としての意味が失われてしまい興ざめにな
る虞もあることを危惧したのである。問題は誰がどんな意図で書いたかではなく
私がどう解釈できるかである。これは今でもそうであり、だから私が何か些細な
質問をする時というのはよほどの裏があるのだ。先日も某所で「ああ、そうです
か」の「ああ」が付かないのは何故かと質問したが、この質問の裏には具体的に
書けば「ああ」を省くことにより失望や無感動を表現しようとしたのだろうかと
か、わざと自己矛盾を起こすことにより該当箇所への突っ込みを期待しかつそれ
に対する大返し技を用意してあったのではないかとか、その他諸々の深読みのオ
ンパレードがあったのだが、どうも釈然としないのでとうとう質問を書いてしま
ったのである。さてもう一つ覚えているのが「犬という名前の猫と猫という名前
の犬を戦わせたらどっちが勝つか」という無茶な問題で「(1)犬。(2)猫。(3)どち
らとも言えない。(4)どちらとも言える。…」というさらに無茶な選択肢が付いた
ものである。とにかく、忘れることのできないこの二つの発言はいずれにせよ
「special interest groupであるべき場にgeneralというカテゴリが存在するのは
おかしい」という主張に対抗するための命題だったと記憶している。いずれもそ
の時でのsalon.generalの未来への予感でもありました。確かsalon.generalのリ
コール騒ぎがあったのもこの頃でした。この時に私はネットという世界に参加し
てから私自身の行動としては最も酷いことをしています。他でも自分自身何度も
バトルに参加したりそのうち何度かは前線で戦い何度か死に何度かは灰化してし
まったものです。発言としては厳しく辛辣で皮肉に満ちた内容を書いたりそれが
エスカレートして罵詈嘲笑に極めて近かったりそのものだったりそれを超えたも
のもあったかもしれませんが、面白いことに自分自身が憤慨したり熱くなったこ
とはまずありません。なぜなら戦争という異状下では冷静さを失うのは負けるた
めの一歩であるからです。仮に私が憤怒しているように見えたならそれはレトリ
ックであります。相手がハイになっていると誤解させるのは威嚇とか擬態という
伝統的な戦術です。思い起こせばアスキーネットで一度だけ完全に頭に来た上で
のバトルがありましたが、その時ですら発言自体は冷静でした。しかしこの時は
メールが凄かった。但し先に殴りかかって来たのは相手だから遠慮する気もなか
った。それはさておきsalon.generalのリコール騒ぎの時のことをよく覚えている
のは、やはり私の記憶の中では唯一度の惨いやり方を忘却し得ないからでしょう。
勿論どう行動すべきか十分に悩んだのですが、結局、自分に正直に行動するべき
だと判断したのです。やはり今でも「あれはやりすぎじゃないか、控えておいた
方がよかったのではないか」と思いますが、逆に控えたなら控えたでそのことを
後悔したでしょう。その時点から一貫して変わらないのは、もしその事をもって
当時のゆかリンさんがそれを遺恨に思ったとしても私自身は何の不満を持つ権利
もなかろうということです。誰かに恨まれても仕方ないと事前に覚悟しての行動
というのは初めての経験でした。この確信犯が今でもトラウマとして確かに残っ
ているわけで、例えば最近も何度か「リコール騒ぎの時だけ出て来て後は何も書
かない奴にはムカつく」というようなことが書かれているのを見る度に、これは
私のことだろうと思ったりするし、ですがそれは自業自得であることは先刻承知
なのです。実際は私のことを指摘したのではないかもしれないし、文脈を見てい
るとどうも本当に違うらしいと思うことも多いのですが、自責の念が強烈なトラ
ウマとなって体内に残っている以上、そのような内容を見る度にギクっとするの
は仕方ありません。ただ、当時その事に関して明白に指摘された覚えが全くなく、
その事が却って今でもトラウマが残る条件となっているのかもしれません。この
ような特殊な条件下における明確な行動を別とすれば、私の記憶に残っている文
章というのはギャグが多いようです。確か他のsigで「百聞は一見西和彦」と書い
たことがありますが、こういうのは忘れません。私の場合は苦心して書き上げた
長文は何を書いたのかという大雑把なことさえ殆ど覚えていません。先日ログを
見返すまで、Non氏との激烈な戦いがあったことをきれいさっぱり忘れていた程で
す。これは不思議なことですが、書いてしまったらそこでさっぱりして記憶から
消え去るのかもしれません。ただし、この戦いでは私自身は極めて大きなことに
気付き、それは以後の自己の行動に大きな影響を残した、言い換えれば今の自分
自身にも反映されている程の明確な、かつ大きなステップアップのきっかけとな
ったのですが、それ程大きな影響が残っているにも関らず、その発端がNon氏との
戦いであったことは全く覚えてなかったのであります。それに対して、「イヌか
ネコか」のような単純なjoke的文章はそれ自身がキメ言葉であるせいか、ずっと
記憶に残っているようです。そのような記憶の中で最も古いものは「猫にころん
(格言)」というもので、これはvoiceの途中で誰かが「猫にコロンをかけたら引
っ掛かれました」と言った所で間髪を入れず書いたというもので、確か1987〜88
年頃のことです。私がvoiceに病みつきになる前の入門者期のことで、当時voice
ではシャイな私はいつもこそこそ傍観していたものだが、この一言は妙に受けた
ので、今も覚えているのだと思う。猫といえばjunkの「猫のノート」というノー
ト(タイトル名は自信なし)に書いた「急所猫が噛む」は我ながら秀逸でした。
その後コミックアフタヌーンで同じような事を岸和田博士が言っていたが、私が
junkに書いた方はこの後に「これは痛い/しかし、なんでまた…」と続く所が急
所です、即ちここから連想するものは読者間共通であるという点が極めて重要か
つその点で自己採点では10対9で勝っております。実際「舌がざらざらしているの
であまりよくないそうだ」というレスも付いて大いに勉強になりました。junkで
もう一つ覚えているのは最近といっても多分一、二年前の話だか「ここでうっぷ
んをはらしましょう」みたいなノートがあって、まだ殆ど何もレスがない所でつ
い即座に「うっふん」と書いてしまった事があり、これで吉本で言えば舞台上総
コケ状態になりこのノートは開いた人の意図に反してぶち壊しになってしまった
とゆーか、その意図は未だに分からないが、いずれにせよたった四文字でノート
の趣旨をぶち壊したというのは自己最短記録なのです。junkならこの手の印象的
な発言はいくつもあり「名を、名を名乗れい!」「なのれ〜」や、「いっていい
ですか?」「いく〜」等きりがありませんが、本当にそんな事しか覚えてないの
かというと、実は本当に覚えていないのです。もっとも例外がない訳ではありま
せん。特に、自分で開いたノート、例えばMaiのメルヘンランドだとか童話喫茶の
ことは当然覚えているが、これは私が開いたノートが少ないことも記憶の助けと
なっている特別な場合だと言えましょう。ただそれはアスキーネットの話です。
例えばNIFTY-Serveで何を書いたか覚えているものというと、確かにギャグも多く
て、「明日は明日の風邪をひく」は同じセリフがセーラームーンに出てくる前に
ちゃんと書いていたし(尤もこの程度なら誰でも思い付くだろう)、特に枕草子
のパロである「春はデバッグ。やうやう白くなりゆく窓際少し明かりて、紫立ち
たる煙草の煙の細くたなびきたる。」は自画自賛になってしまいますが一生に一
度書けるか書けないかの完璧な名作で(とはいえこれは某氏作の「僕の前にバグ
はない、僕の後にバグはできる」に触発されたものだ)、この出来になると死ぬ
まで忘れる気がしません。言うまでもなく、これは徹夜明けのデバッグ風景の描
写なのですが、経験のあるプログラマーならこれを読んだ時に思わず涙するので
あります。その他既にネット上には現存しませんが、“ンも太郎侍”に「ひとお
つ、人の仕様を盗み、ふたあつ、不埒な制限三昧、みっつ、見にくい画面表示よ
のう…」と言わせてみたり、あばれん坊将軍に領収書を書かせてしまうといった
時代物のギャグはいくらでもありました。しかし、NIFTY-Serveの発言なら、今で
も覚えているものの中にはもっと大真面目なものが多いのです。例えばソフトウ
ェアの評価だとかフリーソフトウェアはどうあるべきだ、将来のネットはどうあ
るべきだ、男女差別問題、差別語の問題、発言における公正な論評の法理、等々。
それはさておき話を戻しましょう。壁が高いという比喩を使いましたが結局salon
.generalの本質は「誰でも気軽に参加できる」と宣伝しつつ実は現に参加してい
る人と他にごく一部の新人として認められた人にしか参加できない閉鎖的な空間
であることにあります。これはsalon.generalだけでなくアスキーネット全般に言
えることです。今でもよく覚えておりますのはjunk.testでアスキーネットに対し
て「もっといろんな人に書いて欲しい」ということを書いたら「今のままでいい」
というレスが付いたのであります。これこそ現にアスキーネットが桃源郷として
完成された状態に到達しておりそこから先を望まないことを示しているのだと思
うのであります。テーマが明確な他のsigでは、そのテーマへの共通性という道標
を基準にして新人は入る手かがりとし得るのですがsalon.generalはまさに究極の
至高の「おかしいっぱい」状態であり既に完成されたその姿を見つつも何を理由
にここに参加すればよいのかとまず新人は悩むのであります。そして思い切って
参加した人達の中でも特に不幸な人達は文字コードが云々と叩かれ混乱の内にア
スキーネットそのものを去るのであります。salon.generalの定常性は現にレスを
書いている人達が固定化していることからも強く伺えるのであります。私が見た
限り、このような固定化現象はどこでも見られるわけであり、また多かれ少なか
れ新人が発言し辛いという雰囲気や、常連が身内話に熱中してしまい、新たなる
参加者にここは私のくる場所ではないようだと決断させてしまうこともしばしば
あるのですが、それでもNIFTY-Serveとアスキーネットとの最大の違いというのは、
新人の方々だとか一見さんの比率にあります。実際salon.generalで始めて書いた
ぞという方の発言をいくつ見たでしょうか。それをいくつ覚えていらっしゃるで
しょうか。最近ならビジネスを何とかという発言は割と印象に残っていましたが、
その他にはあまり思い付かないのでありますが、一月ほど前にも誰かいたような
記憶がありますが、それにしてもNIFTY-Serveでは「はじめまして」という発言は
毎日のようにごく普通に見られるのであります。なぜsalon.generalに新人参加が
少ないかというと、一つはアスキーネット自体新人が少ないからだということも
大きな原因ですが、もう一つはやはりsigop、もしsigopという表現に抵抗がある
というなら世話役でもボードリーダーでも何でも構いませんが、とにかくこの種
の担当者が不在ということが大きな影響となっていると思います。このことはア
スキーネットではもう書き飽きるほど書きましたがもう一度書きますと、私が一
時アスキーネットで準アクティブという程度に文章を書いていた時、最初に書く
きっかけというのがやはり難しいもので、この時に何人かの当時sigopさん、例え
ばまなみさんとかaskさんにお世話になってそれでようやく書き始めることが出来
ましたが、この方々がもし存在していなければ、私の場合はsigに積極的に参加す
ることができませんでした。ですからもし私が今の時点でアスキーネットに参加
し始めたとすれば、GEにもsalon.coffeeにも書けないだろうと思うのです(もっ
とも、salon.coffeeは事実上salon.パチンコになっているようだが)。パブリッ
クステージでは誰が何を書いてもいいのだとか会員の当然の権利だというのは奇
麗ごとで、実際はうかつに書けばその場だけの暗黙の了解事項に抵触して叩かれ
ることが多いのです。例えばアスキーネットでは長文は嫌われるとか(だからこ
の発言など言語道断の途方もないことである)、文字コード云々とか、ノートの
数が増えたらレスを付けずに次のノートに行くだとか、BNは短くしろとか、パン
の切り方に文句を言うなとか。先程しきい値が低いとすれば鴨居も低いと書いた
のですが(言葉の対応としては「敷居が低い」と書く所かもしれないが、敷居が
低いというのは本来また一般的に別の意味に使われるのであえて「しきい値が低
い」とした)、これも誰かが「ここは鴨居が低いですよ」「頭上注意」と言えば
それで済むものを、誰も何も言わないから入ってこようとする人が頭をぶつけて
しまうのです。もちろん、sigop不在でも、頭上注意と言う人が他にいればよいの
ですが。もう一つsalon.generalを見て思うのは、果たしてこの場自体が新人を期
待しているかというと、全くそうではないような気がするわけです。アスキーネ
ットでアクティブだった時代には、私は主にコミュニケーションを意識していま
した。自分の考えを相手に伝えるのが最終目的でその為の技法や戦略を学び修行
したのです。その時の周囲の反応は場によって様々ですが、salon.generalは結果
がコミュニケーションかノーコミュニケーションかという二者択一にはっきり分
かれてしまう傾向が強いと思います。salon.generalではありませんが、アスキー
ネットで最近私が珍しくも参加した議論では、あまりに私が予期した通りの流れ
になり過ぎてかえって恐怖を感じることがありました。話の流れが100%思った通
りになるというのは、とても恐いものです。NIFTY-Serveではまずこういうことは
考えられず、常に、若干意表を突いた反応が見られるのですが。ノーコミュニケー
ションになった場合、まず一体何がどうなったのかさっぱり理解できないという
極度の混乱状態に陥ります。ノーコミュニケーションになるという結果は、ネッ
トが会話的存在である以上、全く予想外のとんでもない結果としか言えないわけ
で呆然とするわけです。例えばオーラスでハコの親で手牌が「発・発・発・二索
・二索・二索・三索・六索・六索・六索・八索・八索・八索」でヤミテンしてい
たらあろうことにも一索を自摸ってしまい勢いよく叩き切ったら下家の国士に振
り込んでしまった時のような猛烈なショックを受けるのです。これで立ち直れと
いうのは無茶な相談ですが、我慢して何度も同じ目にあっているうちに、ムカが
昇華して平然と「ふ〜ん」と言えるようになれる人もいます。しかし、多くの人
は姿を消すことを考えるようです。人為的に作られたアクティブ会員はその活発
化度に比例した速度で挫折する(アルジャーノン・ゴードン効果)という説もあ
ります。実際多くのアクティブネットワーカーが姿を消し去りました。私がアス
キーネットで初めて書いたのが1987年頃ですが、当時書いており今も書いている
という方は殆ど見掛けません。ここでネットを挫折すると後の人が「あの人は何
処へ行ったのだらう」と思うことになるのですが私はネットを去るというよりは、
むしろ他者とのディスコミュニケーションを意識して楽しむことを考えるように
なりました。いくつものネットを傍観していて思うのは、自分の考えが相手に伝
わるとは限らないどころか、むしろ正確に伝わらない事の方が圧倒的に多いのだ
ということです。そして「こう言ったのに相手は別の解釈をした」「言いたいこ
とが相手にどうも伝わらないようだ」という認識のずれは、それ自体が大いに楽
しめるものだと気付いたのです。そのためには様々な考え方を持った人々と会話
を交わさなければなりません。salon.generalはその点では均一な集団なのでやや
向いていません。ここではコミュニケーションかノーコミュニケーションかとい
う二者択一になりがちで、ディスコミュニケーションとはならない。不条理日記
風に言えば「臓腑をえぐる罵倒→血まみれの反撃→なれあい」というパターンが
イメージとしてはあります。なぜアスキーネットでここまで単純なパターンには
まった議論になりがちなのか、ということに対しては、自説としては、参加者の
均一性がかなり影響しているのではないかと思います。アスキーネットでよく
「この発言はNIFTY-Serve風だ」という趣旨のレスを見掛けますが、これは勘違い
をしています。あらゆるネットに参加している訳ではありませんからあくまで私
の経験した狭い世界の中だけで判断した結果ですが、NIFTY-Serve風の書き方があ
るのではなく、むしろアスキーネット風の特殊な文体があると考えるべきです。
この個性的な雰囲気に慣れていると、無個性な他ネットの文体に逆に違和感を感
じ、NIFTY-Serve風というような誤解をしてしまうのです。私の知る限りではアス
キーネットは有料化された頃から雰囲気があまり変化していないようです。もし
かすると実験時代から変化していないかもしれません。これはアスキーネットの
均一性を乱すような会員に対しては強力な抵抗が行われる結果だと思われます。
NIFTY-Serveがテナント風運営によって着々と規模を大きくしているのに比べると、
アスキーネットは何も変わったように見えないし、これからも変わらないだろう
という安心感があります。NIFTY-Serveが会員500万人になってもアスキーネット
は今と同じ規模であるような気がします。salon.generalを特徴付けているのがそ
こに積極的に参加している人たちであることは間違いないと思います。約1割の人
が9割の発言を書いている、というのもどのネットでも共通して見られる現象です。
つまり、ごく一部の人たちによってsigの雰囲気が作られていると考えてよいはず
です。インターネットに流れるarticleの量が、現在約150MB/日だとかいいますか
ら、全部読もうとすれば、一日24時間をフルに使っても約1700バイト/秒で、これ
は人間の能力をはるかに超えています。この量はさらに増えるでしょう、私は数
年内に今の十倍になると予想しています。これはインターネットを使う人の増加
率と、接続するためのコスト、使い方の難しさの変化などから予測した大雑把な
値です。では、そうなったらどうなるかというと、当たり前の話ですが、全部読
むことはできません。例えば何か質問したい人は、そこを読まずにとりあえず質
問することになりますが、それは前からそこにいる人にとっては既に答えあきて
いることが多いでしょう。今でさえもう「FAQ listは何処にありますか」という
質問が最も多い質問になっていますが、もう少しすれば「FAQ listは何処ですか」
なんて書いたら「同じ質問を何度もするな、馬鹿野郎」といきなり叩かれたりす
るかもしれません。慎重な人は「FAQ listがどこにあるか知るためにはどうすれ
ばよいか」と質問することになり、コミュニケーションはどんどん深みに落ち込
んでゆくのです。アメリカではCD-ROMが大量に生産されていてどんなCD-ROMがあ
るのか分からないのでCD-ROM TITLESとかいうCD-ROMのデータベースのCD-ROMが出
ていますが、これがさらに増えるとCD-ROM TITLES TITLESというCD-ROMのデータ
ベースを網羅したデータベースが出るんじゃないか、という話に似ています。全
部読むことができないというのは、比較的小さな集まりであるアスキーネットで
すらそうなっていて、全sigを読んでいる人は殆どいないようだし、現にsalon.
generalという一つのsigでさえ「量が多いから全部は読んでいない」という人が
いたはずです。つまりアスキーネットの殆どの会員は、全sigではなく、いくつか
のsigを選択して読んでいるようです(細かいことをいえば、「殆どの会員はアク
セスすらしません」が正解かもしれませんが、ここでは会員とは一応アクセスだ
けはしている人を意味すると理解してください)。書かれた量が読める量より多
くなれば、もうどれを読むかを選択するしかないのです。この時点で、sigに対し
て「全部読む」機能しかなければ、人間が読める量の限界というフィードバック
が働くために、いくらでも発言が増えるということはあり得ません。つまり、発
言量がどんどん増えて読める量を超えてしまったら、もう読めないという理由で
脱落する人が多くなります。そうすると発言量も減ります。その結果ある程度の
分量で落ち着いた状態になるわけです。しかし、その場にある発言をすべて読む
必要があるかといえば、そこに大きなトリックがあります。確かに、百人の会員
がいれば百の意見、一万人いれば一万の意見という考え方もあります。しかし現
実はそうではありません。人間の思い付くようなことは、無限にあるのではなく、
むしろ典型的なものが殆どをカバーしているからです。その人だけの個性という
のは有るようで実はあまりないものです。人間の思考パターンというのは思いの
ほか貧弱なものです。一万人もいれば、ほぼ同じ意見を持っている人が大勢いま
す。そして同じようなことを言う人が何人もいるという事実に気付くわけです。
ある人がこれから書こうとしていることは、他の人がどこかで見たような内容だ
ったりします。全部を読む暇がないという意味では、たとえ別人の書いた別の意
見であっても、中身が同じなら読む暇が惜しいと思うでしょう。しかし、それが
他の意見と同じかどうかは、それを読んでみるまで判断できません。つまりジレ
ンマです。ところがsalon.generalのようにごく一部の人がほとんどのことを書く
ような状況になれば、それらの人の書くことは、読む前に何が書いてあるかだい
たい分かるようになります。あらゆる集団でみられることとして、ある程度の人
が集まると、自然に常連という固定メンバーのグループができてきます。常連と
いうのはいわば「読む前にだいたい分かる」人たちの集まりです。親しくなるこ
とによって、会話がくだけてきますが、そのかわり常連とそうでない人との間の
壁ができ、次第に高くなります。このような現象はどのネットでも起きますが、
例えばNIFTY-Serveのフォーラムにある壁(いくつかのフォーラムにある「壁」と
いう会議室のことではありません)は一部をのぞいてsalon.general程は高くあり
ません。最初は多少外れたことをしてしまうかもしれませんが、それでも少し勇
気があればどんどん中に入って行ける位の高さであることは、毎日のように“初
めての発言です”と書く人がいることからも分かります。この壁の高さは常連間
の親しさの強さにも関係しています。親友〜友達〜知人という順位で親しさが強
いとしますと、すなわち壁が低いということはお互いが知人程度の関係であるこ
とです。知人の関係になるのは親友になるよりも簡単ですから、このような場に
入るのは簡単だし、また出るのも楽です。このことと、発言が多くなりすぎると
発言する人が少なくなるという効果が加われば、新しい人が入ってくると同時に、
その場にそれほど強いつながりを持たない人が、自然と去ってゆくことになり、
その結果、いつも同じ位のアクティブ発言者がいることになります。そこに何人
が同時にアクティブでいられるかということは、システムの使いやすさや、そこ
にいる人のパワー、たとえば一日に読み書きできる文章の多さなどのバランスで
決まるようです(このように新しい人が入ってくると同じだけ古い人が出て行く
ことをキルヒホッフの法則とよびます)。NIFTY-Serveのかべの高さだと、中でと
どまっている人もいますが、そこは注ぎこむ川と流れ出す川のある大きな淵のよ
うなもので、たんなる大きな水たまりではけっしてないのです。よくみればかな
りのながれがあることが分かるのです。これに比べるとsalon.generalのかべはと
ても高く、完全にそとのせかいからとおいところにあるてんごくだと思います。
ながれはほとんどなく、いつまでも、だれもがへいわにくらすことができるパラ
ダイスなのではないでしょうか。しかしsalon.generalにも、ものたりないと思っ
ていることがあります。その人のかいたことは一しょうわすれられないというよ
うな、つよいパワーをもったよげん者がみつからないということです。かなりま
えにNIFTY-Serveでかいてはんきょうのあったことばを今もおもいだします。ここ
でかいてもしょうがないかもしれませんがついでだからかきますと「よげんしゃ
のことばはでんしけいじばんの上にある」ということばです。これをいまもおぼ
えているのは、じょうきょうがかわてないからだとおもいます。えいごなら"The
words of the prophets are written on the bulletin boards"のはずです。こお
かいたらわかるとうり、これはさうんどおぶさいんれすのぱろでなのです。いし
ょうけんめいはつげんをかいてもだれもよんでくれないことがあるとおもいます。
れすがついたけどなんかへんなこともあるとおもいます。さうんどおぶさいれん
すのかしをぜんぶいんよおしたいくらいですが、あのうたはまるでねっとのこと
をうたっているみたいだとおもいましたねっとはそのようなききかんがいぱいあ
るべきだとおもうのにしょぐんさろんにはそれわあまりありませんぼくにはそれ
がみつからないですたかいかべがあるとはいりにくいですがかべがあればでるの
もむずかしいとおもうあんていしたせかいのなかではこころがだんだんつかれて
しまいたいくつになりやがてはうごかなくなるとおもいますそしてそのうちひと
りずつうごかなくなてしまうとおもいますいつかだれもいなくなるかもしれない

ついしん、もしおひまがありましたらうらにわのあるるるるるるるるるるるるる
ル