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2008年7月のアレ

まあ日記というのか、そういうものだ。

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2008年7月31日

ぺたぺたの用意をする。 ふと思ったのだが、これは一体いつまで続くのだろうか。

2008年7月30日

僕の帽子はすぐにどこかに忘れられてしまうねぇ。 その旅に大変な騒ぎでいろんな店を探す羽目になるのだが、 何かと元の場所に戻ってくることができている。

2008年7月29日

funchain のブログが消滅しているような気がする。 ていうか、ブログどころか funchain ごと全部消滅しているような気がする。 何なのだろう?

2008年7月27日

この文章は地下鉄で書いている。 地下鉄の中は無線LANも携帯も入らないので、 オンラインでブログ等に書くことができない。 オフラインだと、ここに書くのが都合がいいのだが、 もしどこでもインターネットに接続できる時代になったら、 そういった使い分けの意味も消滅する。

今日はなぜか電車が結構混雑している。

運動部の試合なのか、 おそろいのジャージを着た中学生位の少女が何人か電車に乗っていた。 この女の子達がケータイを使い始めたのだが、 全員ピンクのケータイなのである。

女の子はピンク、というステレオタイプは顕在、 というか強化されているのだろうか? パステルカラーのケータイもあると思うのだが、 …とかいうと、パステルカラーと女の子を結びつけるというのもステレオタイプじゃないか、 という話になる。 少し前にコトノハで「かわいい色の車」というコトが出ていたのだが、 パステルカラーを指摘する人が多かったような気がする。

2008年7月26日

500円で都営乗り放題のワンデーパス。 これ、うっかり買い忘れてすごい損した気分になることがある。 今日はラッキーか。 雨という天気予報のようだが、 花火大会とか行く人は気づいただろうか。

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駆け込み乗車をしようとして、ドアが閉まって失敗、というのを見た。 その後「危険ですから…」というアナウンス。

田舎では駆け込み乗車はあまり見かけない。 誰か乗ろうとしていたら、 駆け込まなくても電車は待っていてくれる。 都会でそれをすると、 いつまでたっても電車を発車させることができない。

先日、駆け込み乗車でドアに鞄をはさんでいた人を見た。 どうするのだろうと思ったら、 車掌はドアをちょっとだけ開けてすぐに閉めた。 この隙間では鞄を引くことはできるが乗車することはできない。 何度かこれを繰り返した後、乗ろうとしていた人は諦めたようだ。

もっと昔の話だが、 鞄だけ挟んだままで電車が行ってしまったのを見たことがある。

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電車でお化粧をしている女性発見。 どんどん顔が変わっていくのを見るのは面白いものだ。

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すのものさんのいろいろに出てくる「「きのうぶたれた少年」の意味」。 少年はぶったのかぶたれたのか分からない、という趣旨である。 「ぶたれた少年」だからぶたれたに決まっているように見えるかもしれないが、 もし「私が」という言葉がどこかに隠れているとすると、 少年がぶったことになる。

デフォルトという考え方がないだろうか、と思った。

即ち、省略するということを、そこに出てくるオブジェクトとの間に強い関連がないため、 と解釈する。強調したい言葉を省略する人はあまりいない。 ということは、「きのうぶたれた少年」は「ぶたれた」という動作と「少年」との関係が、 ここに出てこないが確実に存在するもう一人の誰かに比べて強いことを意味する。 つまり、ぶたれたのはもう一人ではなく少年である。

もっとも、デフォルトはあくまでデフォルトである。 断言できるほどの威力はない。

2008年7月25日

どうもブラウザが重いなー、 と思ったのだが、 Firefox がたまに暴走していることがあるような気がする。

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イギリスかどこかで、 何年か行方不明になっていた人がひょっこりと出てきたというニュースがあった。 何年かの記憶が飛んでいるらしい。 浦島太郎だ。

災害や事故で行方不明になる人がいる。 行方不明だと、残された人は、まだどこかで生きているかもしれないという一縷の希望を持つことができる。

2008年7月24日

コミック「モーニング」のディアスポリス。 このマンガは、コマの使い方が凄いと思う。 最近は、絵を読ませるマンガはなかなかないような気がする。

2008年7月23日

この話題いつまでやるつもりなのか分からないが、 いい加減飽きてきた。

朝日新聞のコラム「素粒子」に対して、 鳩山法相談。(20日、閣議後の会見)

犯した犯罪、法の規定によって執行された。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。

どこまで本気で言ったのか分からない。 法相が本物の死に神を知っている確率も0ではない。 ひょっとしたら友達の友達が死に神という可能性だってある。 って、馬鹿馬鹿しくて確認する気にもならない。

真面目な話、 コラムのように現実世界を描写する文章の中に死神という言葉が出てきたら、 それは本物の死神を意味しているのではなく、 死神という架空の存在に対するイメージに対比させた比喩としての何かがあると考えるべきだろう。 では、このコラムは一体何が言いたいのか。 コラムに出てきた表現はこうだ。

永世死刑執行人 鳩山法相。 「自信と責任」に胸を張り、2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。 またの名、死に神。

よく分からない。

この種のコラムにはよく使われる技法なのだが、 読む人の先入観によって意味合いが変わってくるのだ。 善意をもって読めば善意の文章になるし、 悪意をもって読めば悪意の文章になる。 このレトリックを、私は 「鏡」と呼んでいる。

法相はこれを見て激怒したそうだ。 邪知暴虐な王が居た訳でもないが、 なぜ激怒したのか。

私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか

そういう人には、この本がおすすめ。 しにがみのバラッド。

やっと6巻まで読んだ。 書評書きますからね、いつかきっと。 さて、法相はおいといて、 このコラムを見た全国犯罪被害者の会が立ち上がる。 朝日新聞に公開質問状を送ったのである。 まず質問の箇所を紹介する。

1. 永世死刑執行人、死に神の意味を明らかにしてください。 この言葉に、犯罪被害者は塗炭の苦しみを味あわされているのです。

2. 本記事が、死刑を求める犯罪被害者遺族にどんな気持を起こさせるか考えなかったのですか。 考えたとすれば、どうして本記事を書かれたのですか。

3. 本記事後、貴社は「法務大臣や関係者を中傷する意図は全くありません」とのコメントを発表していますが、 意図はどうであれ、「永世死刑執行人、またの名、死に神」との記載は、法務大臣に対する侮辱中傷になると思いませんか

4. 6月21日の素粒子「それでも死刑執行の数の多さをチクリと刺したつもりです」とありますが、 法務大臣の死刑執行の数がどうして問題になるのでしょうか。

公開質問状

これに対する回答も公開されている。 思い切って、その回答を極限まで超要約すれば次のようになる。

1. (説明なし)

2. 考えなかった。

3. 思わない。

4. 先に法相の(不適切な?)言動があったため。

最初の質問へは少し長い返事があるのだが、 内容ははぐらかしで、質問に対する回答は全く書かれていない。 例えば「満月のときになぜウサギが見えるのですか?」と質問したら 「今日はいい月ですねぇ」と返事されたような感じである。 そりゃ質問した側が怒るのも当然だ。

4について若干補足しておく。 このコラムが世に出る前に、 法相は死刑執行に関して、 次のように言っている。

半年以内に死刑は執行されねばならないという規定が自動的に進むような方法はないのか、 ベルトコンベヤーと言ってはいけないが、 順番通りということなのか、それとも乱数表なのか、わからないけど

「言ってはいけない」と言いつつ言ってしまうというのも妙な話だが、 コラムの趣旨としては、この言葉抜きには「死神」という表現は出てこないようである。

もちろん、全国犯罪被害者の会はこの回答に納得できないから、 再質問書を送った。 内容はここには紹介しないので、興味があれば【朝日新聞社に再質問書を送付しました】を参照して欲しい。

これに対する回答は先の回答の文章の抜き出して短くしただけで、 何も目新しい内容がなかった。 従って、もちろん会はこれでは納得しないから、 再再質問書を送付している。

さて、話は最初の公開質問状に戻る。 ここに見過ごせない内容が書かれているのだ。 ブログでも紹介したが、次の箇所。

永世死刑執行人、死に神の正確な意味は分かりませんが、少なくとも良い意味では使われてはいません。本記事は、法務大臣だけでなく、死刑求刑した検察官、死刑判決した裁判官、執行に関与した関係者等すべてを侮辱するものと言わざるを得ません。

論理的破綻についてはブログに書いた通り。 正確な意味が分からないにも関わらず、 少なくとも良い意味では使われていないと断言しているのだ。 こう断言したのは同会の代表幹事である弁護士なのだが、 この人が、MSN産経ニュースには、次のようにコメントしている。

法相が死に神なら、死刑執行を願っている被害者や遺族も悪い意味を持つ死に神になってしまう

ちょっと待て。

意味も分からないはずなのに、 なぜそう強引に 悪い意味を持つ死に神 というような偏った話に持ち込もうとするのだろうか? 勝手に死神を悪者にするというのは、 明らかに 死神に対する侮辱であり、 大変失礼な話だ。 それも、死神自身のみならず、死神を崇拝、畏怖、支持する人達に対して失礼だ。

一体どういう意味で「悪い意味を持つ死に神」という言葉を使ったのか、弁護を聞きたいものだ。 そのようなコメントが、死神を支持している人達にどんな気持ちを起こさせるか考えなかったのか? 考えたとすれば、どうしてそのようなコメントを発表するのか。

といった感じで憤慨する人がいてもいい位なのだが、 現実的には死神に対して悪い奴だと考えている人が多いだろう。 それは否定しない。 ただ、 この人達は、 自分達が被害者だと思い込んでいて、 実は加害者になっていることに気づいていないのではないか。 それを責めている訳ではない。 レアな人達が多数派から迫害、差別されるというのはよくあることだ。 いいとか悪いという話は別にして、 そのような待遇に我慢して生きるしかない、 それが現実というものだ。

世界にはいろいろな伝説がある。 例えば悪魔、鬼など、人間を死の国に導く存在は多種多様である。 その中で死神というのは、畏れ多くも神というステータスを与えられているのだ。 神である。 さらに考えてみれば、 死すら悪ではない。 その証拠に、人は必ず死ぬのだ。

問題はその死に方であったり、 不条理に死に追いやった殺人犯であるはずだが、 そこをスルーして言い方が悪いみたいな所で闘っても不毛だと思う。

2008年7月22日

河合隼雄先生の「より道わき道散歩道」という本を読む。 臨床心理学の先生だけに、 どう読まれるかという所を想定して組み上げたような文章である。 それは自然に頭の中に入って行き、 滞ることがない。

もう少しひっかかる所があった方が面白いような気もする。

日記が文学として確立しているのは日本だけだ、 というのは意外だ。 そういえばアンネの日記みたいなのは他に読んだ記憶がない。 日本がブログ大国だというのは、 そのあたりに秘密があるのだろうか?

日記ではないが、 So-net blog の「今日の戯言」を連休中サボっていたら、 ランキングが1000位あたりから2000位台に落ちてしまった。 まあ順当なことではある。

2008年7月21日

アジトから東京に戻り。 珍しく、電車から降りたらいい位置だった。 特急を降りてからいつもは長いのだが。

電車の中で、おにぎりを食べた。

§

TSUTAYA が半額ということなので、 何か借りようと出かける。 Saint October を借りたかったのだが見つからない。 仕方ないのでということでもないが、 レンタルマギカがあったので借りた。 あと、こどものじかん5。

§

しにがみのバラッド、3巻。 このあたり、アニメでも放送していたが、 割と忠実にアニメ化されていたようだ。

遺言でRPGさせるというのは面白い。 自分もやってみようか。

2008年7月19日

アジトで MTV が見られるかと思ったのだが、 MTV のチャンネルが消滅していた。 CATV が配信しなくなったらしい。 残念なことだ。

もしかしたら料金を払えば見られるのかもしれないが、 そこまでして見たいというものでもないのが微妙。 これが例えばアニメチャンネルだったら、 料金を払ってでも見るのだが。

2008年7月18日

朝日新聞のコラムに法相を「死に神」と表現した件。 朝日新聞側は全国犯罪被害者の会(あすの会)に回答したが、 会側は「誠意が感じられない」ということで対応を検討するという。

誠意が感じられないというのは当然だろう。 むしろ誠意を期待するという神経が分からない。 それに、死を宣告する存在を死に神と比喩するのはある意味ごく普通の感性である。 本来、そこにはプラスの意味もマイナスの意味もない。

ただ、今回の「素粒子」に関しては、物凄くマイナスな印象があるのも事実だ。 とはいっても、そういう所に過剰反応しすぎているような気がする。 言い掛かりとまでは言わないが、 揚げ足を取って社会にアピールするための手がかりにしてしまおう、 といった感じの姑息なものも感じる。 もっとも、それはそれで別に構わないというか、 上手いやり方なのかもしれない。

ところで、 新聞社側は 「犯罪被害者遺族にどのような気持ちを起こさせるかについて思いが至らなかった」 というのだが、 そんな言い訳を信用するのだろうか? 仮にも文章を書いてメシ食っている人達である。 その程度は意識しなくても想定できて当たり前の筈だが。

2008年7月15日

nikkansports.com の社会ページトップの速報に 「乳幼児20人に期限切れワクチンを投与 [15日12:46]」という見出しが出ていた。 ところが、これをクリックしたら 「「怖い」とチワワ蹴って殺した男を逮捕」という記事が表示されてしまう。

おかしいな、と思ったので、 メールで連絡してみようかと思っているうちに、 社会ページの見出しが全体的に更新されてしまって、 リンク違いは消滅してしまった。

頻繁に更新するページの場合、 多少のリンク違いは気にしなくてもいいのである。

2008年7月13日

欲しいものが買えない というレベル。 これは別に珍しくはない。普通はこれである。 ただし幅が恐ろしく広い。 ピンキリなのだ。

これがもう少しヤバくなってくると、 必要なものが買えない、 ということになってくる。 意外と必要なものがなくても何とかなるもので、 我慢して生活することになるのだが、 さらにヤバくなってきたら、 食うものが買えないとか、 住めないとか、 そっちに遷移し始める。 日本でここまで行くのはかなり稀な話で、 だからこそ「おにぎり食べたい」と書き残して餓死したら全国ニュースになるののだ。

2008年7月7日

液晶ディスプレイとコンピュータの使いやすさの関係について。

液晶ディスプレイには、 各ドットが非常に明確に表示されるという特徴がある。 従来主流だったブラウン管モニターは、 その構造上、どうしてもドット毎ににじみが生じる。 液晶の場合、1ドットだけ点灯した場合に明確にそのドットのみ点灯し、 周囲のドットは点灯しない、というような状態になる。

これは言い換えれば、 ピントがぴったり合った画面だということだ。 画面のピントが合っているのと合っていないのとでは、 目の疲労度が桁違いに違う。 画面のピントが合っていたら見やすいのだ。

ピントが合っていれば、 眼球は普通にそれを見るだけでよい。 だから疲れない。

文字がぼやけていると、 眼球は何をするだろうか? 眼球はそこにぼやけた文字が表示されているのではなく、 目のピントが合っていないと考えるのだ。 その結果、 何とかピントを合わせようとし、 目の筋肉を使って補正しようとがんばるのである。 しかし、元の画像がピンボケなのだから、 どう頑張ってもクリアな画像に見えることはない。

いつかは無駄な努力を諦めるかもしれないが、 結局、眼球は筋肉を使い続けて、かなり疲労するという結果になる。

ところで、最近のディスプレイは解像度が高くなった。 ここで解像度というのは、 1cmに何ドット表示できるか、という意味で使っている。

パソコンが普及し始めた頃に主流だったディスプレイは、 横が640ドット、縦が400ドット、または480ドットだった。 これを16ドットで割ると、横が40マス、縦が25マスまたは30マス、 ということになる。 つまり、縦横ともに16ドットの字の場合、横に40文字、縦に25文字表示できるという解像度だ。

今使っているディスプレイは 1680×1050ドットなので、 同じサイズの字だと横に105文字、縦に65.6 文字入る。 かなり広いことが分かる。

ところが、ディスプレイの大きさは、昔も今もそんなに変わらない。 横に表示できる文字数が3倍弱になったからといって、 17インチのディスプレイが40インチになったわけではない。 ということは、各文字の実際のサイズが小さくなったということだ。 視力が弱いと、字が小さいゆえに読めないということになる。

2008年7月2日

HTML メールの画像を表示しない方がいい理由は、 画像を get したという情報が相手に伝わるからである。

では、画像を get したという情報が伝わると何が問題なのか? もちろん相手が信頼できるサイトであれば問題はない。 自主的に登録したメルマガ等である。 これが spam メールだと、 最初のメールは無差別に送られる。 アドレスは裏の業者から購入することもあれば、 ランダムに生成して送りつけることもある。 いずれにしても、相手が読んだかどうかというのは重要な情報なのだが、 メール中に指定されている画像の URL を工夫すると、 相手が読んだということが分かるのだ。 その結果、spam 有効アドレスリストに登録されて、 spam が来まくることに…

というような噂なのだが、 実際のところどうなのか、 普通に spam が来まくっている状況なので、よく分からない。

もちろん、 相手が信頼できるサイトであれば、 画像を表示して問題ないし、 そのメールを読んだということを相手に伝えた方が効果的なこともある。 例えば、 ある顧客がアニメのDVDのメールだけを読んでいるということが分かれば、 その人にはアニメのDVDに関しては詳しいメールをこまめに送信し、 そうでないメールは控える、 というようなコントロールが可能なのだ。

2008年7月1日

殺人事件の時効をなくすという案があるらしい。 時効がなくなったら、 時効消滅後の自白もなくなるのだろう。